今日の山中節 二天の橋or茶屋問題を考えてみたの巻 その3

この話の続きです↓
今日の山中節 二天の橋or茶屋問題を考えてみたの巻 その1→ https://choraku.exblog.jp/241465060/

今日の山中節 二天の橋or茶屋問題を考えてみたの巻 その2→ https://choraku.exblog.jp/241465908/

前回のブログでは、山中節の代表的な歌詞のひとつ
♪送りおくりましょうか~ 送られましょか~ せめて二天の橋までも~
この歌詞に、♪二天の茶屋までも~ と唄う別のヴァージョンが存在し、
少なくとも大正期には、どちらも唄われていた事を紹介しました。

今日のブログでは、大正期よりもう少し時代を遡ってみたいと思います。

大正14年に発刊された『石川縣江沼郡誌』第九章交通 藩政時代の陸路の項には以下のように記されています。
江沼郡國内行路 
一、山中温泉道府城より山中至二里半 其歴所南郷、吸坂、茶屋、黒瀬、河南、二店茶屋、中田、長谷、田上、原、塚谷、山中。
又山代より別所を經て二店茶屋至道有。(後略)

山中節の発祥時期が、江戸時代元禄期(1688~1704)だと言われています。
まだ、「山中節」とは呼ばれていない時代ですが、前述の通り、すでに二店茶屋が存在していたことがわかります。

これは、『加賀江沼雑記(山口隆治著)』によると、中田村と小菅波村が大聖寺藩より「茶屋役」に課せられており、
それぞれ、中田村の出村であった日天村の「日天茶屋」と、小菅波村の「天日茶屋」が存在、どちらも繁盛していたそうです。

さらに、『加賀の道1(石川県教育委員会編)』によると、日天茶屋には、「川方」「山方」の二軒の茶屋が二天橋詰に存し、
名物の鮎鮨を売っていたそうです。
また、二天橋は貞享年中(1684~1687)、大聖寺藩主二代前田利明によって架けられ、
江戸後期は長さ十四間、幅六尺三寸の板橋とり、昭和6年に現在の鉄橋となりました。

元禄期に山中節が産声をあげた草創と期を同じくして、二天橋が架けられ、そして茶屋が店開き、日本海では北前船が活躍し、
二天茶屋村は次第に、船頭と湯女との哀情を催す唄の舞台へと変貌していきました。

※文献により、二店茶屋、日天茶屋、二天茶屋と表記ゆれがあります。
今日の山中節 二天の橋or茶屋問題を考えてみたの巻 その3_a0041925_20524125.jpg

って事で、もうちょっと続きます。


by choraku | 2022-05-29 22:29 | 今日の山中節

北陸山中温泉のネタをだらだらとアップしてます。どうぞよろしくお願いします。


by choraku
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31